柴田勝家公誕生地 明徳寺

柴田勝家公

柴田勝家公

画像:Wikimedia Commons

明徳寺と柴田勝家

明徳寺は真宗高田派のお寺で、戦国の武将、柴田勝家とのつながりのあるお寺として知られています。明徳2年(1391年)に創建されたといわれます。本堂(※1)は約130年前に建立されたものだそうです。

山門前右側に下社城址の石碑(※2)が建っています。

山門前左側には、柴田勝家公誕生地の石碑(※3)が建っています。立て札には「かめ割り柴田」の逸話が書かれています。周辺はすっかり住宅地(※4)となっていますが、この地であの戦国の武将・柴田勝家が誕生したのです。

柴田勝家ゆかりの明徳寺へと続く坂道が「勝家坂」(※5)です。戦国時代に想いを馳せながら、坂道をゆっくり歩いてみてはいかがでしょうか。

※1~※5 画像資料参照(明徳寺の写真)

かめ割り柴田

柴田勝家は享録三年(一五三〇年)この地で生まれたと言われている。幼名を権六といい、信長より4歳年長です。

当時、勝幡(春日井)の城主・織田信定の子に信秀(信長の父)という人物がいました。

剛勇で知略に富み、今川に勢対抗するために古渡城にいましたが、勝家が幼き頃より知勇に勝れているのを見込んで、古渡城に招き、文武の道を教えたのが縁となって、織田家に属するようになったといわれています。織田信長の重臣で、勇猛な武将であった。

主君の命で近江長光寺城を守っていたとき、佐々木承禎に城を攻められ、籠城に備えた飲食用の「水がめ」を割り、士気を鼓舞して大勝を得た「かめ割り柴田」の逸話は、人々によく知られているところである。

柴田勝家公 奉賛会の歌

昭和一○年頃 勝家を偲んで歌われました

(一)享禄三年夏の頃 猪高下社の城の中に 柴田権六生まれたり 仕ふは織田の信長よ

(二)十八歳の初陣に 植えし其松今もあり 二十五歳権六は 織田信長の主将にて

(三)千軍万馬往来し かめ割り柴田の英名は 総見員と諸共に 世に知られたる勇士なり

(四)越前国の大柱にて 残せし業績かぎりなし 天正十と一とせの 賎ケ嶽なる戦いは

(五)戦運勝家利なくして 北の荘にて最後せり ああ従三位勝家を 奉賛会の勝家公

十王像

十王像

明徳寺境内に十王堂があり、十王像が(まつ)られています。

「十王」とはあの世で、亡くなった人を裁く閻魔大王(えんまだいおう)を代表する十人の王の事です。

今から700年程前の源頼朝の頃、悪疫(あくえき)が各地にはやり、十王堂を建立して平癒(へいゆ)を祈願したのが始まりです。一般的に柳沢十王堂と言われています。

十王堂御利益縁起

昭和20年3月25日、戦争の空襲による爆弾のため、堂は微塵に吹き飛ばされましたが、不思議なことに十王像は 地蔵菩薩ぼさつを中心に一かたまりになって安泰でした。村民はその仏徳の奇跡的な霊験に 深く感動して、一層信仰をあつくしたということです。

昭和45年に仏像の塗装工事がなされ、現在のように美しくなっています。

十王堂御利益縁起

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